マル秘エピソード

 書籍では語られなかったここだけの話

 京都・都ホテル軟禁事件 

  当時、雄琴温泉付近の一部を特殊浴場の営業を「禁止除外地区」としたため、規制の無かったこの地区にトルコ業者(当時はソープランドをトルコ風呂と呼でいた)が集まりソープランドが乱立し、どのお店もラブホ並みの立派な店構えで40店舗くらい立ち並んでいた。夕方になると一斉に明かりが灯り、まばゆいばかりのネオン街が誕生する。まるで異次元の空間に迷い込んだ感じがする不思議な場所だった。 
 
 僕が弾き語りをするクラブは、地元の人が昼間は喫茶店をやっていて、夜は営業していないため、その空き時間を借りてホストクラブに変身するというお店であった。   お店の駐車場にはスポーツカーや高級車外車が何台も止まっていた。後でスタッフに聞いた話だが、それらの車は殆どお客さんからの貢物だと言っていた。  この頃「雄琴」にはソープ嬢が全国から集まり300〜400人くらい働いていたという。彼女たちの遊ぶ場所はこのホストクラブ以外にはなく、連日満員という状態が続いていて大繁盛していた。

 僕の仕事はというと「弾き語り」で45分のステージを受け持ち、3人編成のトリオバンドと交代で午後9時から朝方の4時までのステージをこなすというものだった。

 初日、9時から始まるステージを終え、一人で来ていたお客さんにテーブルに呼ばれドリンクをご馳走になった。20分くらいたわいもない会話をして席を立とうとしたときに、紙ナプキンに包まれたチップを渡された。
  「有り難う御座います」といって受け取りトイレへ駆け込んで開いてみると、なんと3万円が包んであった。

東京でもらうチップは5千円〜1万円位が相場で、その日のステージが終わる頃には7万円ものチップがたまっていた。「とんでもない所に来たもんだー」そんなチップ攻撃が3、4日続いた。宿泊するところも近くにソープ嬢相手の宿泊施設が何件かあり快適なホテル住まいだった。

 しばらくすると、毎日お店に来てくれるお客さんがいて、そのたびにテーブルに呼ばれ毎回ご祝儀をもらっていた。   そのお客さんから頂いた名刺には鎌倉御殿「佐久間良子」と書かれてあった。
鎌倉御殿というソープ店は源氏名が全て、芸能人の名前になっていて「佐久間良子」というだけあって、とても綺麗なお姉さんだった。また、その他の「お嬢様」とは、お店が終わった後、大津の街や京都まで車で繰り出し、ダンヒルのライターやブランドスーツなどプレゼント攻撃を受けていた。僕は弾き語りというよりは、もはや売れっ子「ホスト」そのものであった。
     
 ある日の午後、宿泊先のホテルに佐久間良子さんから電話があり「私を指名してお店に遊びに来て」という内容の電話だった。実はこの時、僕はソープ未体験で勇気が持てず恥ずかしくためらっていた。当然、これまで自分から遊びに行くことはなく、 とはいえ、興味はあったし経験もしてみたい。「人性(?)経験として神様が導いてくださっている」このチャンスを無駄にしてはダメだ。男の名が廃ると都合のいい理由をこじつけ、意を決して「鎌倉御殿」に向かった。
 
 入場料と指名料で1万5千円支払い、後は部屋に入ってプレー料金を支払うというようなシステムだった。待合室で待つこともなく係りの人に「佐久間良子」の部屋に案内された。

 「いやー、こんにちは‥」 「ごめんなさいね、無理言って」 「ゆっくりなさって」

 言葉少なに彼女は、薄い透けたガウンのようなものを羽織って湯船のお湯加減をみている。 僕をみてにっこり微笑む顔は、まさに女優「佐久間良子」そのものであった。一方僕といえば、処体験がバレないように余裕の演技をしていたが‥体は正直で初めて体験する興奮と緊張感で色々な所がコッチコチなっていた。

 「洋服を脱いで、そこのカゴに入れて‥」

 それから《しめやかに行われた行為》は、残念ながら極度の緊張のせいかはっきり覚えてない。

 帰りぎは「有り難う」と言って、お金を支払おうとすると、お金を受け取るどころか「入ってくる時お金取られたでしょ」といって、3万円を僕に渡そうとした。

 僕は、「いや、いいよ、今日はいい」と些細な抵抗をしたが、笑顔に押されてしまいお金を受け取り玄関までお見送りしてもらった。

 こんな、素晴らしい体験を与えられ、さらにお金まで頂いて夢の様な経験だった。まさに「この世のパラダイス」その日から取り憑かれたように、貴重な経験を重ねた。そんな、こんなで、楽しくやっている僕に突然「事件」が起きた。 週末、いつもの様にお店へ出勤したら店長が慌てた様子で、 「南さん、今日はステージ休んでいいから直ぐ逃げて!」

「早く、早く。車で少し遠くのホテルにでも行って、後で連絡して!」と言っている。 「どういうことですか?」と、尋ねると、

「怖いお兄さんが南さんを探している、ここにいて捕まるとまずいから」 訳分からず、直ぐに車を走らせ、京都の駅前にある「都ホテル」にチェックインして店長に連絡した。
 
 真相はこうだった。土日になると雄琴には黒塗りのベンツなどの外車が多く走っており、怖いお兄さん方が付近をうろついている。それは、週末、関西圏からソープ嬢の1週間分の稼ぎを集金にくるお兄さん(ヒモ)達で、彼女たちは、ほとんどが 怖いお兄さんの女であった。 どうやら仲間のソープ嬢が僕と佐久間さんとの関係をたれ込んだらしく、男が必死で僕を探している。という話で、店長がそのことを察して逃がしてくれた。というわけだ。 もしも、そんな男に捕まってしまったら‥想像すると震えがとまらなかった。着の身着のままステージ衣装で逃げてきて、 怯えながら犯罪者ように身を隠し過ごした「都ホテル」での3日間。ヤクザ映画の恐喝シーンが次々に頭に浮かび、生きた心地がしなかった。まるで北野映画の「アウトレイジ」の世界だった。
 
 
 4日目、店長からの電話で、その怖いお兄さんが街を出ていったのでお店に戻って来てくれないか。という連絡が入り、おそるおそる雄琴の街へ戻った。  いつものようにステージに上がったが、お客さんがお店に入って来るたびドキドキして震えていた。森進一の歌なんかいつもよりバイブレーションが効いて上手く歌えるんじゃないかなー。と、冗談を言っている余裕はなく、店長に無理を承知で頼み込み、

 「すみません。もう、この店で歌っていられません。東京へ帰らせて下さい!お願いです!」と訴え、店長はしぶしぶ承諾してくれた。

 東名高速を走る車の中には、現金60万円とブランドスーツ3着、デユポンやダンヒルのライターなど、貢ぎ物に囲まれ逃走するかのように東京へと車を走らせた。

「天国と地獄」を味わった「京都・都ホテル軟禁事件」はこうして幕を閉じた。
 当時のバンド仲間には、彼女を水商売に務めさせ毛皮のコートを着て、ブランド物を身につけたヒモまがいのリッチなバンドマンが多かった。バンドマンはモテるから仕方ないとはいえ、こんな生活をしているとダメになると思い、弾き語りの生活から足を洗った(エライ)。

 そして1975年3月(24歳)、コミックバンド「ブラックジャック」結成に至るのである‥。
 
 
書籍では語られなかったここだけの話

 京都・都ホテル軟禁事件 

  当時、雄琴温泉付近の一部を特殊浴場の営業を「禁止除外地区」としたため、規制の無かったこの地区にトルコ業者(当時はソープランドをトルコ風呂と呼でいた)が集まりソープランドが乱立し、どのお店もラブホ並みの立派な店構えで40店舗くらい立ち並んでいた。夕方になると一斉に明かりが灯り、まばゆいばかりのネオン街が誕生する。まるで異次元の空間に迷い込んだ感じがする不思議な場所だった。 
 
 僕が弾き語りをするクラブは、地元の人が昼間は喫茶店をやっていて、夜は営業していないため、その空き時間を借りてホストクラブに変身するというお店であった。   お店の駐車場にはスポーツカーや高級車外車が何台も止まっていた。後でスタッフに聞いた話だが、それらの車は殆どお客さんからの貢物だと言っていた。  この頃「雄琴」にはソープ嬢が全国から集まり300〜400人くらい働いていたという。彼女たちの遊ぶ場所はこのホストクラブ以外にはなく、連日満員という状態が続いていて大繁盛していた。

 僕の仕事はというと「弾き語り」で45分のステージを受け持ち、3人編成のトリオバンドと交代で午後9時から朝方の4時までのステージをこなすというものだった。

 初日、9時から始まるステージを終え、一人で来ていたお客さんにテーブルに呼ばれドリンクをご馳走になった。20分くらいたわいもない会話をして席を立とうとしたときに、紙ナプキンに包まれたチップを渡された。
  「有り難う御座います」といって受け取りトイレへ駆け込んで開いてみると、なんと3万円が包んであった。

東京でもらうチップは5千円〜1万円位が相場で、その日のステージが終わる頃には7万円ものチップがたまっていた。「とんでもない所に来たもんだー」そんなチップ攻撃が3、4日続いた。宿泊するところも近くにソープ嬢相手の宿泊施設が何件かあり快適なホテル住まいだった。

 しばらくすると、毎日お店に来てくれるお客さんがいて、そのたびにテーブルに呼ばれ毎回ご祝儀をもらっていた。   そのお客さんから頂いた名刺には鎌倉御殿「佐久間良子」と書かれてあった。
鎌倉御殿というソープ店は源氏名が全て、芸能人の名前になっていて「佐久間良子」というだけあって、とても綺麗なお姉さんだった。また、その他の「お嬢様」とは、お店が終わった後、大津の街や京都まで車で繰り出し、ダンヒルのライターやブランドスーツなどプレゼント攻撃を受けていた。僕は弾き語りというよりは、もはや売れっ子「ホスト」そのものであった。
     
 ある日の午後、宿泊先のホテルに佐久間良子さんから電話があり「私を指名してお店に遊びに来て」という内容の電話だった。実はこの時、僕はソープ未体験で勇気が持てず恥ずかしくためらっていた。当然、これまで自分から遊びに行くことはなく、 とはいえ、興味はあったし経験もしてみたい。「人性(?)経験として神様が導いてくださっている」このチャンスを無駄にしてはダメだ。男の名が廃ると都合のいい理由をこじつけ、意を決して「鎌倉御殿」に向かった。
 
 入場料と指名料で1万5千円支払い、後は部屋に入ってプレー料金を支払うというようなシステムだった。待合室で待つこともなく係りの人に「佐久間良子」の部屋に案内された。

 「いやー、こんにちは‥」 「ごめんなさいね、無理言って」 「ゆっくりなさって」

 言葉少なに彼女は、薄い透けたガウンのようなものを羽織って湯船のお湯加減をみている。 僕をみてにっこり微笑む顔は、まさに女優「佐久間良子」そのものであった。一方僕といえば、処体験がバレないように余裕の演技をしていたが‥体は正直で初めて体験する興奮と緊張感で色々な所がコッチコチなっていた。

 「洋服を脱いで、そこのカゴに入れて‥」

 それから《しめやかに行われた行為》は、残念ながら極度の緊張のせいかはっきり覚えてない。

 帰りぎは「有り難う」と言って、お金を支払おうとすると、お金を受け取るどころか「入ってくる時お金取られたでしょ」といって、3万円を僕に渡そうとした。

 僕は、「いや、いいよ、今日はいい」と些細な抵抗をしたが、笑顔に押されてしまいお金を受け取り玄関までお見送りしてもらった。

 こんな、素晴らしい体験を与えられ、さらにお金まで頂いて夢の様な経験だった。まさに「この世のパラダイス」その日から取り憑かれたように、貴重な経験を重ねた。そんな、こんなで、楽しくやっている僕に突然「事件」が起きた。 週末、いつもの様にお店へ出勤したら店長が慌てた様子で、 「南さん、今日はステージ休んでいいから直ぐ逃げて!」

「早く、早く。車で少し遠くのホテルにでも行って、後で連絡して!」と言っている。 「どういうことですか?」と、尋ねると、

「怖いお兄さんが南さんを探している、ここにいて捕まるとまずいから」 訳分からず、直ぐに車を走らせ、京都の駅前にある「都ホテル」にチェックインして店長に連絡した。
 
 真相はこうだった。土日になると雄琴には黒塗りのベンツなどの外車が多く走っており、怖いお兄さん方が付近をうろついている。それは、週末、関西圏からソープ嬢の1週間分の稼ぎを集金にくるお兄さん(ヒモ)達で、彼女たちは、ほとんどが 怖いお兄さんの女であった。 どうやら仲間のソープ嬢が僕と佐久間さんとの関係をたれ込んだらしく、男が必死で僕を探している。という話で、店長がそのことを察して逃がしてくれた。というわけだ。 もしも、そんな男に捕まってしまったら‥想像すると震えがとまらなかった。着の身着のままステージ衣装で逃げてきて、 怯えながら犯罪者ように身を隠し過ごした「都ホテル」での3日間。ヤクザ映画の恐喝シーンが次々に頭に浮かび、生きた心地がしなかった。まるで北野映画の「アウトレイジ」の世界だった。
  
 4日目、店長からの電話で、その怖いお兄さんが街を出ていったのでお店に戻って来てくれないか。という連絡が入り、おそるおそる雄琴の街へ戻った。  いつものようにステージに上がったが、お客さんがお店に入って来るたびドキドキして震えていた。森進一の歌なんかいつもよりバイブレーションが効いて上手く歌えるんじゃないかなー。と、冗談を言っている余裕はなく、店長に無理を承知で頼み込み、

 「すみません。もう、この店で歌っていられません。東京へ帰らせて下さい!お願いです!」と訴え、店長はしぶしぶ承諾してくれた。

 東名高速を走る車の中には、現金60万円とブランドスーツ3着、デユポンやダンヒルのライターなど、貢ぎ物に囲まれ逃走するかのように東京へと車を走らせた。

「天国と地獄」を味わった「京都・都ホテル軟禁事件」はこうして幕を閉じた。
 当時のバンド仲間には、彼女を水商売に務めさせ毛皮のコートを着て、ブランド物を身につけたヒモまがいのリッチなバンドマンが多かった。バンドマンはモテるから仕方ないとはいえ、こんな生活をしているとダメになると思い、弾き語りの生活から足を洗った(エライ)。

 そして1975年3月(24歳)、コミックバンド「ブラックジャック」結成に至るのである‥。